2011年3月11日

2011年3月11日、10年前のわたしの記憶を自分の備忘録として残す。その日は金曜日だった。

関東南部に住んでいて、直接的に大きな被害にあった当事者ではないので、なにをいっているんだという程度に思えばいいと思うが、静かに書き残しておきたいと思う。しみったれた思い出話なので、なるべく人目に付かない場所がいい。

昨年コロナが少しだけ落ち着き、Go To キャンペーンのやっていた11月に三陸海岸を訪れたが、10年経ったからといって当事者にとっては一区切りがつくものではない。復興の歩みはこれからも続いていくのである。しかし、この地震を体感していない人にとっては改めてあの凄まじい揺れと津波がきたことを知り、将来自分が経験するかもしれない地震災害にどう行動すべきかということを考えさせる契機にはなる。

 

当時わたしは高校2年生。
期末試験が終わり、その日は球技大会の日であった。
球技大会といっても、個人的には球技は楽しくないので、教室か武道場か、どこかにこもって友達と過ごしていた。


午後2時46分、強い揺れが襲った。
ボーっとしていても揺れているのがはっきりわかった。
木造のボロい校舎だったが、上の方が波打つように揺れているのが明らかに体感でも目でもわかった。
こんなに強い揺れは経験したことがない。関東で大きな地震が起きたのかと思った。
全校生徒が校庭に集まってガラケーで情報を集めている。
(その当時はガラケーの時代だった。もっと前、マイケル・ジャクソンが亡くなったという知らせも、ガラケーで知って、高校の授業中のクラスのみんなに知れ渡った)


ほどなくして、関東が一番強い揺れだったのではなく、宮城県震度7だったということを知った。
体育館に集められ、帰れる生徒は帰り、帰れない生徒はどうするか決めかねている状況であった。
わたしは高校から自宅まで電車通学。歩けば16kmくらいの道のりである。
しかし、通学で使っていた南武線は止まっているという。このままでは家に帰れるか怪しい。しかし、学校に泊まりたいとは思えない。
高校は川崎北部で、わたしの家は川崎南部である。学校の行事であった、高校から川崎南部の川崎大師まで多摩川沿いを歩く大師競歩という行事を思い出し、16kmの道のりはそれを思えば変わりないと思ったので、わたしは歩いて家に帰ることにした。そのとき、たぶん夕方4時すぎくらい。
おんなじ方面に住む友達と一緒に歩いて帰った。
あとになって、学校に残った生徒はその夜学校に泊まったということを聞いた。
南武線沿いをただひたすら歩いた。同じく学校や会社から家に帰ろうと歩く人々とたくさんすれ違い、たくさん追い越したり追い越されたりした。
武蔵新城武蔵中原の駅は明らかに停電していた。まだ外は明るい。


そこから暗くなってきたころのことはあんまり覚えていないが、自宅に帰る最後の交差点を曲がったとき、ある道の境から向こうは停電していてはっきりと暗かったのを覚えている。


自宅に帰る。すでに暗い。8時すぎか9時前くらいだと思う。父と母は帰っていない。ずっとライフラインが止まっていたらと考えたらぞっとしたので、近くのコンビニに水などを買いに行く。在庫はあんまりなかった。しかし、帰ってきたら停電が収まっていたので少し安心した。


テレビを点けて、各地の被害状況を知る。北海道からかなり西の方まで大津波警報津波警報が発令されたと知る。福島県宮城県岩手県をはじめとして、太平洋沿岸部で津波が起こったという。宮城県の沿岸で数十から数百人の遺体が見つかったと聞いた。岩手県大船渡市では火災が発生したと聞いた。しかし、その当時、あれほど凄まじい大きさの津波が襲ったとはまったく知らなかった。原発事故が起こったとは、実感としてわからなかった。首都圏でも火災が発生したと聞いた。

 

母(当時49歳)は東京駅で地震にあった。東京駅の地下で一夜を過ごすことになった。心細いなか、ミッツ・マングローブさんが食糧を提供してくださったり、職員の人々が寝るための道具を用意してくださったらしい。それで翌日、満足に動かない東海道線に乗って帰ってきた。3月11日に買って、本当は当日の夜に食べようと思っていた弁当を持って帰ってきた。

 

父(当時59歳)は茨城県水戸市偕楽園の立体駐車場から出ようとしたところで地震にあった。駐車場がぐわんぐわんと揺れるのを、車の中でも感じたという。しかし、梅の咲き誇る偕楽園を一通り観光したというのは気楽である。灯籠が崩れていたということを言っていた。その後、常磐自動車道は通行止めだったので、国道6号線を長時間掛けて帰ってきた。だいぶ進まなかったようである。途中のコンビニは食糧の売り切れが続出していたようである。

 

翌日は父も母もだいぶ疲れていた。父は茨城県で単身赴任をしていたが、3月15日からは東京の出先で働いていた。首都圏の鉄道ですら、平常時ほど満足に動いていなかった時期である。
わたしは学校が休校になったのだろうか。南武線が動き始めたのはいつくらいだっただろうか。そして、ここから数ヶ月くらいか、東日本大震災のニュースとACのコマーシャルで埋め尽くされるテレビの鮮明な記憶は忘れられないと思う。